西国街道めぐりコース
観光スポット案内
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京都の「東寺口」を起点として「向日町」をへて「摂津」へと抜ける古い街道で、京から西国に向かう主要幹線道路でありました。「山城名跡巡航志」という記録によると、「東寺口ヨリ向日野ニ至ル一里十二町」の間には吉祥・石原・上久世・大藪・下久世・寺戸の地名が、「向日野ヨリ山崎駅関戸ニ至ル一里二十四町」には神足・調子・円明寺・寺口の地名が見られ、京を出て最初の宿場が「山崎」で、ここで荷物をつけ替え、「郡山」(現在の茨木)までが、1日の行程です。乙訓郡内では、西国街道のことを「山崎街道」とも言いました。現在でも、当時の面影を残す家並みが残っています。
桜の径は、阪急西向日駅南東の桜並木が広がる閑静な住宅街にあり、噴水公園を中心に町並み景観を生かした散策道として整備されています。また、この地域の発掘調査では、「春宮」と墨書された土器が出土しており、長岡京時代の皇太子の住まいが付近にあったのではないかと考えられています。
桜の径の地図位置
一文橋 向日市と長岡京市の市境、西国街道が小畑川を渡る地点に架かる橋です。小畑川は暴れ川で、何度も洪水により橋が流されたため、通行人から一文づつを徴収して橋の架け替えの費用にあてたという伝承からこの名前がついたようです。
歴史の道 歴史の道は、西国街道の道筋に古いたたずまいを残す家並みの景観を生かし、散策道として整備されたものです。
一文橋・歴史の道の地図位置
上植野町御塔道にあり、鎌倉時代末期、日像上人が向日神社前にある法華題目の石塔婆の傍らにお堂を立て、石塔寺と称したのが創建と伝えられています。お寺の名前から、御塔道という地名がつきました。
毎年5月に石塔寺で開催される「鶏冠井題目踊り」は、京都府の無形民俗文化財に指定されています。
石塔寺の地図の位置
寺戸町西ノ段にあり、屋号を「松葉屋」といい、江戸時代末まで醤油の製造販売を営んでいた旧家です。須田家住宅は、西国街道と愛宕道の分岐点にあり、元和2年(1616)に作成された古文書にも記載されており、京都府の指定文化財(建造物)となっています。
須田家住宅の地図の位置
常夜燈は、寺戸町初田にあり、天保13年(1842)に伊勢参りの講の一つ、築榊講の人々によって建てられました。現在は、家並みの谷間になっていますが、かつては一際高く明かりが灯され、西国街道を往来する人々の安全を祈っていました。
築榊講常夜灯の地図の位置
深田川は、今から1400年前大陸からの渡来氏族である秦川勝が造った灌漑用水路と言われています。嵐山付近で桂川をせき止め物集女・寺戸をへて羽束師で再び桂川に注ぎ込みます。この川は、「西ノ岡用水」とも「寺戸用水」とも呼ばれ、中・近世には水利権をめぐって再三水争いが発生したようです。
深田川の地図の位置
深田橋は、向日町の玄関口として京の三条大橋などと同様に公儀橋として、京都の代官が管理していた橋です。元禄10年(1967)に京都の代官により架けられた「唐橋」は、長さ5間・幅1間6尺の立派なものでありました。そして、正徳4年(1714)に寺戸村民により石橋に架け替えられてからは、村の管理となりました。